關於
本人曾経兼任:台灣首府大学 應用外語系日文組 日本語口譯講座的兼任講師(2010.09.09~2012.08.16)
本人自1987年獲日本國交流協會獎學金錄取之後至日本仙台東北大學大學院經濟學國際經濟學研究所、公費留學3年、畢業後旅居在日本計16年半、在日語的口筆譯及筆譯工作方面,累積了多年工作經驗。曾在日本的名古屋中区的口譯派遣業W5公司擔任日語口譯員及筆譯員4年。2007年考取日語導遊執照。筆譯的専長項目:学術論文翻訳、研究所入学推薦介紹信、観光旅行雑記、企業広告文宣、商業往来書信、法律合約文件、故宮博物院文物介紹等。
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林村陽の自伝
1956年4月7日、台湾の東海岸にある辺鄙な村で生を受けた私は、小さい頃から大自然への好奇心が強くて、ずっと1歳年下の弟と一緒に田舎の田圃の間に蝶蝶や蛙、トンボ、ないし渓流にあった魚などの狩り活動を楽しんでいた。
中学時代には、私は優れた英語の先生に出会ったため、英語の啓蒙教育をきちんと受けましたお蔭で、中学校時代の英語成績は、抜群のものでした。当時の流行として、田舎の中学校に素晴らしい成績を修めた先輩達は、相次いで大都市である台北市の名門高校へ目指して進学する経緯があり、私も彼らに影響されて、自分にも台北市の名門高校である建国高校への進学を目指して北上の道を選びました。
そして、激しい受験戦争を経て、手にしたのは、建国高校の夜間部に進学する資格でした。仕方がなく夜間部の入学手続きを済ませた後に生活費と学費を捻出するため、昼には、ある雑貨屋の店員というアルバイトの仕事をしていながら学校に通っていた。所謂仕事と学校を両立させた高校生活が始まりました。
1977年の夏には、私は念願の国立中興大学に入学を果たしました。それに当時大学時代の生活費用及び学費を捻出するために私は中学生の家庭教師という仕事を見つけて、反抗期に迎えている中学生を相手に英語や数学を教えました。そして、数多く家庭教師としていた経験を積み重ねて行くうちに私は次第に教育テクニックの重要さをしみじみに認識されるように痛感しました。
その後、大学三年生から四年生になる直前の夏には、学部の後輩から紹介されたひとつ、ユニックな家庭教師としての仕事がありました。それは、日本から台北に派遣されて来た海外駐在員の妻を相手に中国語を教える仕事でした。勿論、当時の私は、日本語の語学レベルがまた未熟ところか、まるで、初級レベルにも入られなかったぐらいの程度でした。それにしても、日本人の妻を相手に中国語を教えるのは、楽しい思い出が沢山ありました。これは、私にとって、初めての異文化交流の経験でした。彼女に中国語を教える度にお互いに次第に日中両国言葉の発音や、単語、文法、ないし慣用語までに色々な相違点と共通点があることを気付きました。それに伴って、異文化交流の面白さも満喫していました。本当に懐かしい思い出でした。
私は、正式に日本語の啓蒙教育を受けたのは、大学一年生の時に、当時東呉大学の日本語学部を卒業したばかりの従兄である李世仁 氏から特別の1対1の日本語発音の啓蒙教育の訓練を受けたことがそのきっかけでした。周知の通りに当時の東呉大学は、台湾の学界においては、日本語教育を専門とする蔡茂豊教授の名声が高くて、その有名な先生の下で、日本語の教育を受けた従兄の語学レベルも抜群そのものでした。当時では、従兄である李世仁 氏は、台北の繁華街である西門町で「傑達日本語」とう日本語塾を開設した。その日本語塾で私は、きちんとした五十音の発音や、アクセントをメリハリに区別する発音練習、ないし日本語の基礎文法などの洗礼を受けました。そのきちんとした日本語啓蒙教育のお蔭で、10年後の1987年4月1日に私は念願である日本留学の夢を叶えました。
1987年4月1日のあの日には、初めて、東京の羽田空港についた私は、目がきらきらとしたように興奮と新鮮さに包まれました。それから、初めて東北新幹線に乗った経験や、初めて京都の金閣寺を訪問した思い出、初めて、大雪の中に新潟の駅に着いた経験、また、敦賀の港町に民宿を宿泊した経験など、数々懐かしい思い出が続々と記憶の世界に飛び去って行かれました。
1989年12月には、私は、「台湾の経済政策における輸出加工区の位置」と言う題目を修士論文の題として、東北大学大学院経済学研究科の私の指導教官であった渡邊 寛 先生に提出しました。その後、東北大学大学院の経済学研究科に工業経済論を講義していた平本 厚 先生を始め、教官達からの修士論文の口頭試問を受けました。順調に口頭試問を突破し、修士号が授与されました。
1990年3月、私は大手の婦人服専門店である鈴丹に入社しました。それから1997年10月までに勤続期間が7年半にも続けました。それから、フリランスの中国語通訳と翻譯の仕事を通じて、中京地区を中心に自動車製造に相関するメーカーと中国や台湾から来た業者の間に通訳の仕事を勤めました。
2002年8月4日、私はフリーに乗って、沖縄経由で台湾に帰国しました。日本に十六年に亘っていた留学及び仕事の生活がようやく、その終止符が打たれました。帰国したばかりの私は、故郷である台東市に母親と一緒に毎朝の散歩や太極拳の稽古などをしながら、楽しいひと時を過ごしました。
2003年5月4日、日商三菱重工業台湾新幹線共同事業体の下請け会社である展群営造株式会社に就職し、日本語通訳としてのキャリアーが買われて、就職した直後に、社長秘書の座に就きました。それから2010年1月11日までに7年半にも勤続しました。
2010年1月11日から、私はフリランスの日本語通訳と翻訳の仕事に復帰しながら、近現代の日本文学や中国古典小説の日本語版を精読する作業を通じて、今になってもまた、翻訳されなかった中国古典書籍を日本語に訳す作業を中心に手掛けている日々を楽しんでいます。
以上
西暦2011年3月9日
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